日々の重なり

ロースクール出身者の公務員試験受験、法律ネタなど

○○○○○の追っかけの一環で、「第43回東京モーターショー2013」に行ってみた。

 こんにちは。

 

 先日、東京ビッグサイトにて11月23日~12月1日まで開催されている、「第43回東京モーターショー2013」に行ってきました。

 

①「東京モーターショー2013」の感想 

 モーターショー自体はなかなか面白かったのですが、とにかく人が多かったですね。休日(しかも開催初日)に足を運んだせいもあると思いますが。最近流行りのクルマ離れも何のその、という賑わいぶりでした。

 

 一番興味深かったフロアは「SMART MOBILITY CITY 2013」です。このフロアでは、次世代自動車(パーソナルモビリティ・超小型モビリティ等)の体験走行ができたり、それらを活用した次世代社会システムのビジョンについて展示されていたりしました。

 混んでいたので次世代自動車の体験走行はしなかったのですが、他の人が運転している姿を見て、将来こういう超小型のクルマが走っている姿を普通に見かけるようになるのかなー、これだけ車体が小さいと事故が起こったらひとたまりもないだろうな。。と思ったりしました。

 

 あと、さすがにカメラを持っている人が相当数いましたね。僕は普段からあまり写真を撮らないので持っていかなかったのですが、格好良いクルマが沢山あったので、少し後悔しました。

 

 

②車好きではない僕が、「東京モーターショー 」に行ってみた最大の理由

 以上が簡単な感想なのですが、東京モータショーに足を運んだとはいっても、僕は特に車好きというわけではありません。デザインが素敵なクルマを見かけると、いいなーとは思いますが、将来的には自分も買ってみたいと考えるかというと、そうでもなくて。なお、僕は免許をもっていますが、免許取得以来一切運転をしていないという、正真正銘のペーパードライバーです。

 

  そんな僕が東京モーターショーに行ってみた最大の理由、それは、ある人達がモーターショーでイベントを実施する、という情報を聞きつけたことにあります。この情報をモーターショー開催前日に知った僕は、即座にチケットを購入しました(1300円)。

 さて、その人達というのは、14作連続シングルミリオンセラーというB'z超えの新記録を打ち立て、今や「国民的アイドル」として芸能界を席巻するAKB48・・・ではなく、お笑い芸人のおぎやはぎさんです。

 

 僕は就職活動を終えて以来、おぎやはぎさんを生で見られる機会があれば、ほぼ全て足を運んでいるという、結構なおぎやはぎファンです。例えば、お笑いライブを見に行ったりとか、ラジオの公開収録に参加したりしています。

 今回の東京モーターショーでは、おぎやはぎさんがBS日テレ「おぎやはぎの愛車遍歴」の特別トークショーに参加されるということで、この機会を逃してはならない!と意気込んで行ってみたわけです。当然、自動車に関するトークショーだったので、僕にはついていけない話題も多かったのですが(苦笑)

 

 

 僕がおぎやはぎさんを好きになったきっかけは、数年前に偶然、TBSラジオ・木曜JUNK「おぎやはぎのメガネびいき」を聴いたことにあります。このラジオを聴く以前は、テレビでおぎやはぎさんを見かけることはあったのですが、「特に好きというわけでも嫌いというわけでもないなー」という状況にありました。

 それが、ラジオを聴いてみて、おぎやはぎさんの何ともゆったりとした独特の空気感に、すっかり虜になってしまいました。僕はかなり神経質で、小さなことでストレスを溜めがちなのですが、リスナーを包み込むようなゆるーいお二人の会話を聴いていると、この上なく癒されますし、僕も余裕のある穏やかな人間になりたいな、という気持ちが強くなります。

 

 ラジオ番組の魅力を考えてみると、テレビだと編集でカットされてしまうような、日々の些細な出来事に関するトークであっても、2時間生放送のラジオではそのまま聴けるので、出演者のより素に近い姿を知ることができるように思います。何よりラジオって、生放送中にリスナーから反響のメールが届くわけなので、テレビと比較すると、出演者・スタッフと視聴者の距離が相当近いように感じますね。

 

 「おぎやはぎのメガネびいき」以外にも、面白いラジオ番組はたくさんあるんだろうけど、はまるのが怖くて、踏み出せない自分がいます(笑)

 とりあえず木曜深夜の「おぎやはぎのメガネびいき」を毎週録音して、引き続き週末の楽しみにしていきたいと思います。

 

 それではまた。

2012年衆議院選挙は「違憲状態」にあったが、「違憲」ではなく合憲・・ってどういうこと?(追記あり)

 こんにちは。

 

 前回の記事で触れた、「一票の格差」が最大2・43倍あった2012年衆議院選挙は、違憲・無効であるとして提起された訴訟について、11月20日に最高裁の判決が出ました。

 判決の結論は、以下の通りです。

・・・衆議院小選挙区選出議員の選挙区割りは,・・憲法の投票価値の平等の要求に反する状態にあったが,憲法上要求される合理的期間内における是正がされなかったとはいえず,上記各規定が憲法14条1項等の憲法の規定に違反するものということはできない(太字は筆者による)

 *裁判所ホームページ・裁判例情報より引用(http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010action_id=first&hanreiSrchKbn=01

 

 つまり、2012年衆議院選挙は、違憲状態」(著しい不平等状態)にあったが、選挙までに是正措置がなされなかったとはいえないので、違憲」ではなく合憲である、と最高裁は判断したということです。「違憲状態」なのに合憲・・分かりづらいですね(笑)

 「違憲状態」と「違憲」、言葉遣いはほぼ同じですが、一体どのように違うのでしょうか?以下、補足説明をしていきます。

 

 

  投票価値の不均衡をめぐる訴訟について、裁判所が下す判決は、以下のような段階を踏みます。

                      NO

ⅰ  選挙区割りが、著しい不平等状態にあった→合憲判決

   ↓YES(違憲状態)      NO                                     

ⅱ 是正のための合理的期間を経過した→合憲判決(*)

   ↓YES

  違憲判決

 *合憲判決とはいえ、「違憲状態」にある以上、できるだけ速やかな対処が求められます。

 

 

ⅰ「著しい不平等状態」について

 最高裁は従来、衆議院であれば3倍以上の格差、参議院であれば6倍以上の格差があった場合について、選挙が「著しい不平等状態にあった」と判断してきました。

 ただ、11月20日に出た最新判例では、最大2・43倍の格差で「憲法の投票価値の平等の要求に反する状態にあった」と判断しているので、上記の最高裁の傾向は、もはや過去のものといえるのかもしれません。あくまで、目安にすぎませんしね。

 

ⅱ是正のための「合理的期間」について

 選挙がⅰでみた「著しい不平等状態」、つまり「違憲状態」にあったとしても、裁判所は直ちに違憲判決を下すわけではありません。すなわち、是正のための「合理的期間」を経過して初めて、違憲と判断します。

 このような判断枠組みをとる理由として、最高裁は、「人口の異動は不断に生じ・・るのに対し、選挙区割と議員定数の配分を頻繁に変更することは、必ずしも実際的では・・ない」という理由を挙げています(最高裁昭和51年4月14日民集30巻3号223頁)。

 すなわち、人口の異動等によって著しい投票価値の不均衡が生じたとしても、国会が直ちに抜本的に対処することは困難です。そこで、是正のために必要となる「合理的期間」という概念を作り出し、その期間を経過したときに初めて、違憲と判断する、ということです。

 

 

*追記(2013年11月25日)

 2013年11月20日の判決において、2012年12月の衆議院選挙までになされた是正措置として、最高裁に評価されたのは、「一人別枠方式の廃止」のようです。

 「一人別枠方式」は、小選挙区選出議員の300議席のうち47議席について、各都道府県に一つずつ配分するという制度です(『憲法の創造力』57頁)。この制度は、平成23年に出された最高裁判決において、投票価値の不均衡を意図的に作り出すものとして、合理性を認め難いと批判されていました。

 最高裁の批判を受けて国会は、2012年12月の衆議院選挙までに「一人別枠方式」を廃止しています。その取り組みが、合理的期間内における是正措置として評価されたのだと思います。

 

 

 以上となります。

 それではまた。

「一票の格差(投票価値の不均衡)」を考える

 こんにちは。大変ご無沙汰しております。

 

 今回は、「一票の格差(投票価値の不均衡)」、つまり選挙での一票の重みに、住む地域によって差異が生じていることについて、考えてみたいと思います。

 2012年12月に衆議院選挙が実施されましたが、この選挙に対しては、弁護士グループにより訴訟が提起されています。この弁護士グループは、昨年末の衆院選において「一票の格差」が最大2.43倍であったことから、当該選挙は違憲で無効だと主張しています(この訴訟の最高裁判決は、本日15時に開廷される大法廷で言い渡されます)。

 

 以下では、まず「一票の格差」とはいかなる問題なのか(下記①)、そして「一票の格差」は憲法上どのように位置づけられるのか、を確認します(下記②)。

 さらに、一票の格差は、憲法上絶対に許されないのか否かを検討し(下記③)、投票価値の均衡が要求される趣旨に遡った上で(下記④)、どの程度の投票価値の不均衡であれば、憲法上許容されるのか?について考えていきたいと思います、(下記⑤)。

 

 かなり長文になってしまいましたが、④と⑤のトピックが重要なので、そこを特に読んで頂ければ、と思います。

 結局言いたいことは、地方の政治問題を解決し、地方の住民の声を国政に反映させるためには、投票価値に一定程度の不均衡が生じることは、やむを得ないのではないか、という点に尽きるのですが。

 

*今回の記事の参考文献は、木村草太著『憲法の創造力』(NHK出版新書、2013)の第二章(54~82頁)です。

 

 

①「一票の格差(投票価値の不均衡)」とは

 「一人一票実現国民会議」という団体のホームページでは、一票の格差について以下のように説明されています(http://www.ippyo.org/hubyodo.html)。

住んでいる場所によって一票の価値が不平等になるという事態が、 いろんなところで起きています。


人口10万人につき議員1人という地域の住民が投じた一票に対して、 人口20万人につき議員1人という地域の住民が投じた票はその半分の価値しかない、といったような不平等です。

 

これを「一票の不平等」と呼びます。

 

  つまり、人口の少ない地域では一票の価値が高く、多くの住民が住む都市部では一票の価値が低い傾向にあるわけです。

 

*自分の選挙権に何票の価値があるかは、「一人一票実現国民会議」のホームページのトップでチェックできます(http://www.ippyo.org/index.php)。

 

 

②一票の格差(投票価値の不均衡)の憲法上の位置づけ

 この点について憲法の条文には、「一票の格差は許されない」という文言は見当たりません。

 そこで以下のように、憲法の条文を解釈する必要があります(木村草太著『憲法の創造力』57頁)。

 憲法14条1項・44条より、憲法は「平等選挙」を要請している。

 そして、形式的に一人に一票が与えられていても、一票の中身に差があるのでは、平等とはいえない

 したがって「平等選挙」の要請には、「投票価値の均衡」も含まれる。

 

 そうすると、地域によって一票の価値に格差がある場合、「平等選挙」の要請に反するものとして、憲法上の疑義が生じることになります。

 

 

③一票の格差は、絶対に許されないのか

 ただ、②のように解釈したからといって、一票の価値に少しでも差異があったら直ちに憲法違反になる、というわけではありません。

 すなわち、複数の選挙区を設置する以上、一票の価値を完全に同一にするということは、法技術的に不可能です。全国を一区とすれば、投票価値を完全に均衡させることも可能ですが(前記『憲法の創造力』57頁)。

 

 また、選挙制度の設計においては、国会の裁量が憲法認められています(憲法43条2項・47条)。したがって、投票価値の均衡以外の要素を考慮した結果、一票の価値に差異が多少生じたとしても、正当な目的を達成するために必要な範囲内である限り、許容されます。

 

 よって、一票の格差は、憲法上絶対に許されないものではありません。

 そこで次に問題となるのは、投票価値に不均衡が生じるのは、どの程度までなら憲法上許容されるか?を画定することです。

 

 

④投票価値の均衡が要求される根拠

 以前の記事でも触れましたが、法律学においては、趣旨・目的に遡って、解釈論を展開するというアプローチがとられます。すなわち、形式的には憲法違反にみえても、条文等の趣旨・目的に反していないのであれば、違憲ではないと判断します。

 

 ここでは、「投票価値の不均衡が生じると、どのような悪いことが起きるのだろうか?」という点に遡って、考えていきます(前記『憲法の創造力』66頁)。

 以下では、投票価値の均衡が要求される根拠を 、二つ挙げます。

 

ⅰ 第一の根拠は、「全国民の代表」にふさわしい人物を、国会議員に選べる可能性を高めるためです(以下、前記『憲法の創造力』70~72頁による)。

 

 国政選挙とは、「全国民の代表」(憲法43条1項)たる国会議員を選ぶ制度です。しかし、「全国民の代表」としてのふさわしさを測ることは、身長や体重の測定ほど簡単ではありません。その測定を特定少数の人間に委ねるのは、大変危険なことです。

 そこで、多くの人が投票に参加することで、「全国民の代表」にふさわしい人物を選択できる可能性を高めよう、というのが多数決制度です。そうすると、選挙においては、A:できるだけ多くの人が参加することが重要となります。

 また、B:有権者の人口構成が偏らないことも重要です。たとえば、女性が有権者から排除されてしまえば、女性ならではの知識や知恵を投票結果に反映させることができなくなり、「正解」に到達できなくなるおそれがあります。

 

 投票価値の均衡が要求される根拠も、以上の観点から説明することができます。

 すなわち、一票の価値に格差があれば、参加者が減少することと結局は同じです(×上記A)。また、地域的に偏った不均衡は、投票者の人口構成を偏らせてしまいます(×上記B)。

 このように、投票価値の不均衡は、国民が誤った選択をするおそれを増大してしまうわけです。

 よって、「全国民の代表」にふさわしい人物を選択するという観点から、投票価値の均衡が要求されます。

 

 

ⅱ 第二の根拠は、一部の者だけが優遇されているという感覚を、国民に生じさせないためです(以下、前記『憲法の創造力』74~75頁による)。

 

 人間にはプライドがあります。どれほど客観的に正しい決定であっても、自分が十分に尊重される手続きを経ない限り、人間は従うことができません。

 そして、投票価値に不均衡が生じた場合、一部の者だけが優遇されていると国民は感じ、政治決定に不満を抱くでしょう。

 こうした事態を防ぐために、全国民が等しく尊重され、投票価値の均衡が保たれた選挙を実施する必要があるわけです。

 

 

 以上みてきたように、ⅰ「全国民の代表」にふさわしい人物を選ぶ可能性を高めるため、また、ⅱ一部の者だけが優遇されているとの感覚を国民に生じさせないため、投票価値の均衡が要求されています。

 

 

⑤投票価値の不均衡は、どの程度まで、許容されるか

 ④で検討した二つの根拠に照らすと、投票価値の不均衡は、「一定程度」であれば、許容されると考えられます。

 

 まず、④ⅰの根拠と関係しますが、過疎地域の政治問題にも明るい「全国民の代表」を選出できる限度において、一票の価値に差異を設けることは許されると考えます。

 前述した多数決制度も、万能ではありません。すなわち、解答するのに専門的知識が必要な問題では、多数決の有用性は失われ、専門家の判断の方が頼りになります(前記『憲法の創造力』77頁)。

 そして、都市部の政治問題に詳しい有権者は多数いる一方で、過疎地域の政治問題を熟知する有権者は限られています。そうすると、議員定数を人口に完全に比例させた場合、都市部の政治問題に明るい国会議員が多数選出される一方で、過疎地域の問題を解決する能力がある人物は、ほとんど選ばれなくなるおそれがあります。

 そのため、過疎地域の有権者の一票の価値に、一定程度の重みをつけることは、過疎地域の事情にも明るい「全国民の代表」を選択する上で有用な手段といえ、憲法上許される場合があると考えられます。

 

 次に、④ⅱの根拠と関係しますが、過疎地域の住民に「地方の切り捨て」という印象を抱かせないようにする限度で、投票価値に不均衡が生じることは許容されると考えます。

 つまり、議員定数を人口に完全に比例して配分した場合、都市部の定数は非常に多くなる一方で、過疎地域の定数はほとんどなくなってしまいます。そうすると、地方の声を国政に反映させることは困難になり、過疎地域の住民に「地方の切り捨て」という印象を与えかねません(前記『憲法の創造力』78頁)。

 したがって、都市部の住民という「一部の者」だけが、優遇されているという印象を発生させないために、地方の住民の投票価値に一定程度重みをつけることは、許されると考えます。

 

 

*もっとも、投票価値に著しい不均衡が生じてしまえば、今度は都市の住民が政治決定に不満を抱くことになります。したがって、許容される不均衡は、あくまで上記の目的を達成する上で必要な、「一定程度」のものに限られます。

 「一定程度」というと随分あいまいなのですが、X倍以上の格差なら許されない、というふうに機械的に決められる問題ではないように思います。目的を達成する上で必要な程度の格差なのか?ということを、その都度考えていかなければならないのでしょう。

 

 以上となります。かなりの長文を読んで頂き、ありがとうございました。最高裁判決はどんな内容になるかな・・?

 ところで、これまで頂いたコメント等についていたスターが、なぜか消えてしまっているみたいです。何でだろ?

 それではまた。

「傾聴」の実践Ⅰ

 ご無沙汰しております。

 

  先日、「傾聴」について学ぶ講座を受講してきました。

 以前の記事でも触れましたが、僕は、どうやったら人の話を上手く聴けるようになるのか?という点に強い関心があります。そこで、「傾聴」について実践的な知識を得るべく、講座を受講してきたというわけです。

 今回は、講座を通じて、「傾聴」に関し新たに考えたこと・感じたことについて、書きたいと思います。

 

 

①「傾聴」=正しい回答を示すこと(?)

 以前も引用しましたが、『人事労務用語辞典』(日本経団連出版)によると、「傾聴」は以下のように説明されています。

 

 「カウンセリングやコーチングにおけるコミュニケーションスキルの一つです。

 人の話をただ聞くのではなく、注意を払って、より深く、丁寧に耳を傾けること。

 自分の訊きたいことを訊くのではなく、相手が話したいこと、伝えたいことを、受容的・共感的な態度で真摯に“聴く”行為や技法を指します。それによって相手への理解を深めると同時に、相手も自分自身に対する理解を深め、納得のいく判断や結論に到達できるようサポートするのが傾聴のねらいです」(太字は筆者)

 

 「傾聴」とは、相手の伝えたいことを、真摯に受け止めることです。

 講座を受けて改めて思ったことは、「傾聴」を試みる際には、聴き手が正しいと考える回答を押し付けてはならない、ということです。

 

 ある人が悩みを抱えているとき、その悩みに対して、最も適切な解決策を導くことができるのは、誰でしょうか?

 僕は、悩んでいるその人自身ではないかと考えています。なぜならば、その人が置かれている状況に関して最も多くの情報を有しているのは、その人自身だし、悩みを解決することに最も強いモチベーションがあるのも、その人自身だからです。結局のところ、最適な解決策というのは、相談者の頭の中にあるのではないかと思います。

 だから、聴き手は、自分が正しいと考える回答があっても、決して相談者に押し付けてはならない、と考えるわけです。正しい答えは本人だけが導き出せるもの、そう思います。

 

*もっとも、相手に新しい視点をもってもらうために、「こういう考え方もあるんじゃないかな?」等と意見を提示することは、必要だし重要だと思います。

 聴き手の意見の押し付けにならないように注意しつつ、あくまでも相談者の思考・立場を相対化し、判断過程を支えることを目的として、意見を示すということが、大事だと思います。

 

 

②聴き手の役割 

 このように考えた場合、「傾聴」において、聴き手はどのような役割を果たすべきでしょうか?

 ①で引用した説明の太字部分にも示されているように、聴き手には、相談者が適切な判断を下せるように、「傾聴」を通じてサポートする役割があると考えられます。

 

 前述したように、最適な解決策というのは、潜在的には、相談者自身が一番分かっているのだと思います。

 しかし、自分が置かれている状況を客観的に分析することは、なかなか難しいことです。また、ストレス等によって精神的に追い詰められている場合、人は冷静な判断能力を欠いてしまったり、事態を打開しようとする気力が萎えてしまったりします。

 

 そうした場面において、相談者と向き合い、真摯に話を聴く中で、

ⅰ 相談者の現状を整理し、要因がどこにあるのかを、第三者の視点で分析すること

ⅱ 相談者の悩みに共感し受け入れて、不安を少しでも和らげ元気づけること

というのが、聴き手の役割だと思います。

 聴き手がこれらのサポートをすることによって、本人が対処法を決定する上で必要となる判断材料が整い、また、何としても悩みを解決してやる!という意思が、本人に徐々に芽生えてくるのではないでしょうか。

 

 まあこうして書いてみるのは簡単だけど、「傾聴」って実践してみると、本当に難しい。。繰り返し、トレーニングしていくしかないですね。

 

 

 以上となります。今後も、「傾聴」の講座は定期的に受講するつもりなので、また考えたことがあれば、ブログに書きたいと思います。

 

 ところで、はてなブログでも旬のトピックのようですが、『まどマギ』の新作、僕も早く見に行きたいです。最近、『コネクト』を聴かずにはいられないのです。

 それではまた。

流行時期遅れの「あまロス」発症の件

 こんにちは。

 今回は、ここ数日、遅れ馳せながら僕も「あまちゃんロス症候群」略して「あまロス」に罹ってしまったので、『あまちゃん』のことを振り返りつつ(下記①)、「あまロス」の発症原因(②)、対処法(③)について書きます。 

 法律ネタの記事が続いているため、たまにはゆるい内容も‥ということで、よろしければお付き合い下さい。真面目な話題も挟みますが。

 

 

①『あまちゃん』ざっと振り返り

 あまちゃん』とは、今年の上半期にNHKで放送された、連続テレビ小説です。脚本はクドカンこと宮藤官九郎さん、主演はファッション雑誌「ニコラ」のモデルも務める能年玲奈さんです。

  クドカン脚本の『流星の絆』(2008年、TBS)や『11人もいる!』(2011年、テレビ朝日)のファンだったこともあって、放送当初から『あまちゃん』を視聴していました。

 

 最初のうちは、正直微妙かな~と思っていたのですが、徐々にクドカン独特の台詞回しや、能年さんの思い切りがよい演技・小動物のような愛くるしい演技にハマり、就職活動中も心の支えとしていました(笑)

 特に好きだったのは、能年さん演じる天野アキが上京して「GMT47」というアイドルグループの一員となり、何とかブレイクしようと仲間と支え合い、奮闘していた時期です。無名の時代から知っているアイドルであれば、それは無条件に応援したくなるんでしょうね。現実のアイドルには関心の薄い僕も、ドラマを見ていて、どうしたら「GMT47」が売れるものかと気を揉んでいました(笑)

 

 とはいいつつも、ドラマ終盤では『あまちゃん』熱も大分治まってきていて、ドラマが最終回を迎えた2013年9月28日も、全く良いドラマを見せてもらったな~という感慨に浸る程度で、喪失感には特に苛まれていませんでした。

 

 

②「あまロス」の発症原因

 そんな僕も、ここ数日、流行時期外れの「あまロス」に罹ってしまったわけです。

 自分が発症するまでは、「あまロス」という言葉自体を知りませんでした。はてなキーワードによると「あまロス」とは、以下の症状を指します。

 

NHK連続ドラマあまちゃん』を毎朝昼に観る楽しみが無くなってしまった時の喪失感。「あまちゃんロス症候群」の略称PASDとも。

 

 僕が遅蒔きながら「あまロス」を発症した原因は、能年さんがゲスト出演した番組を最近見て、『あまちゃん』がふと懐かしくなってしまったからです。単純な理由ですね(笑)

 

 特に印象に残っている番組は、 2013年10月19日放送の『突撃!アッとホーム』(NHK)です(http://www.nhk.or.jp/athome/onair/20131019c02.html)。

 この番組では、岩手県の鉄道会社「さんてつ」こと「三陸鉄道」の南リアス線で働く鉄道マンたちが、東日本大震災で各地の線路が分断される深刻な事態の中、復旧を支えて下さった地元の方々への感謝と、復興への決意を伝えるというサプライズイベントを取材していました。

 そのサプライズとは、「吉浜駅からサプライズの会場となる盛駅までありがとう列車を運行し、盛駅前で鉄道マンたちがダンスを踊りだす」というものです(番組ホームページより)。曲は、『あまちゃん』でGMTのメンバーも踊っていた、暦の上ではディセンバーが選ばれました。

 ところが、当の鉄道マンたちにも秘密のサプライズがあり、それが能年さんが本番のダンスに飛び入り参加する!というものでした。

 本番では、暦の上ではディセンバー」の振付師が指導した特訓の成果もあって、鉄道マンたちのダンスはかなり完成度が高く、会場は大盛り上がりでした。さらに、そこに能年さんがサプライズ出演した会場は歓喜の渦に包まれ、さらなる盛り上がりを見せていました。

 

 この番組を見て、『あまちゃん』に登場した「北鉄」を思い出すとともに、僕も被災地に足を運んで、復興に向けた課題を地元の方に直接伺ったり、ボランティアに参加して少しでも復興の役に立ちたいと思いました。

 将来、被災地支援に何らかの形で携わることはきっとあるだろうし、そのときに現場では何が求められているのかをよく把握していなければ、良い政策を打ち出すことはできないでしょう。仕事が始まる前の、フットワークが軽い今の時期にしかできないことも絶対あるはずだから、悔いのないように、来春まで過ごしていきたいと思います。

 

*「三陸鉄道」は来年4月、全線開通するそうです。

 

 

③「あまロス」への対処法

 まず考えられるのは、家族が購入した『あまちゃん』のDVDを借りて、全話一気に振り返ることでしょう。しかし、朝ドラの醍醐味は、毎朝の15分で少しずつ楽しむところにあると思うので、全話をいっぺんに視聴するというのは、どうにも気が向きません。

 やはりベストなのは、あまちゃん』出演者の今後の活躍を見守る、ということな気がします。能年さん達が頑張る姿を見て、今抱えている喪失感を、「僕も頑張らなくては!」という決意に変えていきたいと思います。

 

 ちなみに、僕が一番応援しているのは、GMTのリーダーを演じた松岡茉優(まゆ)さんです。『あまちゃん』では熱くメンバーを鼓舞し、空回りしがちだけど、仲間を想って涙する人情深い役どころでした。

 一方、映画『桐島、部活やめるってよ』(2010、朝井リョウ原作)では、彼氏への独占欲が強く、同級生を見下すような冷淡な女子高生を演じています。

 いずれの演技も迫力があり、非常に見応えがありました。今後彼女が出演する作品は、見逃さないようにしたいと思います。

 

 

 以上となります。長文を読んで頂いて、ありがとうございました。

 それではまた。

ピザ屋のチラシ配りは「住居侵入罪」?~木村草太著『キヨミズ准教授の法学入門』を読んで~

秋の夜長は読書とブログ

 

 こんにちは。

 今回は、前回の記事 でも文献を参照させて頂いた、憲法学者・木村草太先生の『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書、2012)について、「ピザ屋がチラシ配りのためにマンションに立ち入ったら、住居侵入罪が成立するか?」という事例を検討しつつ、感想を書きたいと思います。

 

 『キヨミズ准教授の法学入門』には、「日本一敷居の低い法学入門」というキャッチコピーがついています。実際にこの本は、高校2年生の主人公キタムラと、風変りな法学者キヨミズ准教授の交流を描く物語形式をとっており、彼らの物語を読み進めていく中で、法学への理解が自然と深まっていきます。

 また、「キヨミズパネル」「キタムラノート」によって本文の内容を適宜分かりやすくまとめていたり、漫画家・石黒正数先生が登場人物のイラストを描かれていたりと、読み手を意識した工夫が凝らされています。

 

 さらに、「高校の文化祭で、本人の同意なしに撮影した写真を展示することは、肖像権の侵害にあたるか?」(165~173頁)、「受精卵を盗んだ行為について、窃盗罪(刑法235条)は成立するか?」(193~198頁)といった事例も数多く設定されており、キヨミズ先生が分かりやすく解説してくれます。

 以下では、『キヨミズ准教授の法学入門』のChapter4「青春の文化祭に、法解釈の真髄をみた」より、「法解釈」が問題となる事例を紹介します。

 

 

 ピザ屋のチラシ配りは「住居侵入罪」?(150~153頁)

 キヨミズ先生によると、「法解釈」が必要となる場合の一つとして、条文をそのまま適用すると、あまりにも不都合なケースが挙げられます。

 たとえば、マンションの郵便受けにピザ屋がチラシを配るとき、わざわざマンション管理人の許可をとることはしません。ところが、このピザ屋のビラ配りは、刑法130条を読む限り、住居侵入罪に該当してしまいそうなのです。

 

刑法第130条前段 正当な理由がないのに、人の住居・・に侵入し・・た者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。

 

 この条文を読む限り、宅配ピザのチラシを配るために、管理人の許可を得ないまま団地の共用部分に立ち入ったら、「住居」への「侵入」にあたってしまいそうです。

 しかし、この結論は常識に反するでしょう。ピザ屋のビラが郵便受けに入っていると少し迷惑だなーと感じることがあるとしても、ピザ屋に刑事罰を科すというのはあまりにも行き過ぎです。

 

 そこで、適切な結論が導かれるように、刑法130条の「侵入」という文言を法解釈(=別の言葉に置き換えて明確に理解できるように)します。具体的には、「侵入」とは「管理者の明示又は黙示の意思に反する立ち入り」であると、法解釈します。

 そして、「管理人は、ビラ配りに文句を言ってこなかったんだから、ビラ配りを黙示的には許可していた」という事実が認定できれば、ピザ屋のマンションへの立ち入りは「管理者の黙示の意思」に反さない立ち入りとして、「侵入」に該当せず、住居侵入罪は成立しないことになります(152頁)。

 

 

 『キヨミズ准教授の法学入門』では、上述した「法解釈」(Chapter4)以外にも、「法的三段論法とは何か?」(Chapter1)、「社会科学(政治学・経済学・社会学・法学)とは、どんな学問なのか?」(Chapter2)、「日本法の体系は、どうなっているのか?私法と公法の違いは何か?」(Chapter3)など、法学の基本的知識について、物語形式で分かりやすく学ぶことができます。文章も大変読みやすく、法学に関心がある方には、かなりお薦めの良書です。

 

 

 著者の木村先生は、集団的自衛権をめぐる憲法9条解釈改憲ヘイトスピーチの法的規制などの憲法問題について、ラジオや講演会でも明快に解説されています。最新の出演情報については、木村先生のtwitterhttps://twitter.com/SotaKimura)で確認できます。

 

  以上となります。

 それではまた。

国際法による武力行使規制と、憲法9条

 こんにちは。

 今回は、国際法による武力行使規制と、憲法9条による枠組みを、比較してみたいと思います。

 

 最近は下火になっていますが、少し前までは、米国等のシリアへの軍事介入の可能性について、よくニュースになっていました。この点についてブラヒミ国連アラブ連盟共同特別代表は、「軍事介入には国連安保理決議が不可欠だと国際法は明記している」という指摘をしています。

 この意見を聞いて僕は、武力行使に関して国際法はいかなるルールを定めているのだろうか?と関心をもちました。

 

 また最近では、集団的自衛権をめぐって、憲法9条解釈改憲が話題になっています。新進気鋭の憲法学者である木村草太准教授によると、こうした安全保障の問題を検討する際には、国際法を視野に入れる必要があるそうです。

 そこで今回、国際法憲法9条の枠組みの比較をしてみよう!と考えるに至ったわけです。

 

 以下では、①で国際法による武力行使規制をみて、②で憲法9条による枠組みを確認した上で、両者を比較します。

 

*今回の記事を書くにあたっては、主として以下の文献を参考にしています。関心がある方は是非読んでみて下さい。

・木村草太著『憲法の創造力』(NHK出版新書、2013)終章

防衛省自衛隊ホームページ掲載の「憲法自衛権」(http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html

 

 

 

国際法による武力行使規制

 国際法とは、国際社会で各国の行動の正・不正を判断する基準です(前記『憲法の創造力』220頁) 。

 現代の国際法の下では、武力行使規制は以下のように整理されます。

 

 原則として、武力を行使してはならない国連憲章第2条4項)。

 もっとも、以下の3つの場合には、例外的に武力行使が許される。

ⅰ 国連安全保障理事会の決議に基づいて、国連軍を結成する場合(国連憲章第7章)

ⅱ 個別的自衛権の行使にあたる場合(国連憲章第51条)

ⅲ 集団的自衛権の行使にあたる場合(国連憲章第51条)

 

自衛権とは、「自国の国家秩序に対する「急迫不正の侵害」を除去する権限」(前記『憲法の創造力』216頁) 

 例えば、外国によるミサイルの発射準備や、攻撃目的の戦闘機の領空侵入などが、「急迫不正の侵害」にあたる(前記『憲法の創造力』216頁)。

 

**集団的自衛権の行使とは、「他国の自衛権行使への協力」(前記『憲法の創造力』221頁)

 

 国際法の規制に関連する具体例を挙げると、9.11テロ後のアフガニスタン攻撃について、アメリカ軍の行動は個別的自衛権の行使(ⅱ)として、イギリス軍の行動は集団的自衛権の行使(ⅲ)として、説明されています(前記『憲法の創造力』221頁)。

 なお、歴史上、正規の国連軍(ⅰ)が結成されたことはありません(前記『憲法の創造力』221頁)。

 

  

 19世紀における国際法の議論では、武力行使や戦争は、適法であると考えられていたそうです。

 しかし、20世紀以降の国際法では、武力行使や戦争が違法なものと捉えられるようになり(「武力不行使原則」)、例外的に武力行使等が認められるのはいかなる場合なのか?という点に、議論の軸足が移っていったようです。

 

 例外的に武力行使が許容される場合をめぐる論点として特に重要なのは、自衛権の範囲でしょう。なぜならば、自衛権の範囲が明確にされなければ、武力不行使原則が骨抜きにされかねないからです。

 

自衛権の範囲を明確化することの重要性については、森肇志著 『自衛権の基層 -国連憲章に至る歴史的展開』(東京大学出版会、2009)2頁で指摘されています。

 同書は、19世紀中葉から国際連合憲章制定までの自衛権概念の歴史的展開を分析したものです。僕はまだあまり読めていないのですが、かなり勉強になりそうな本です。専門書なのに文章もすごく読みやすいし。

 

 

憲法9条による枠組み

 従来からの政府見解を前提とすると、武力行使に関する憲法9条の枠組みは、以下のようになります。

 

 原則として、武力を行使してはならない。

 もっとも、個別的自衛権の行使にあたる場合には、例外的に武力行使が許される。

 

 ①国際法の規制と比較すると、武力不行使原則を定めている点では、同じです。

 しかし、①国際法では武力行使ができる例外として認められていた、ⅰ国連安保理決議に基づく場合と、ⅲ集団的自衛権の行使にあたる場合が、②憲法9条による枠組みでは除外されています。

 

   では従来からの政府見解は、どういったロジックによって、「武力行使が許される例外に、集団的自衛権は含まれない」という結論を導いているのでしょうか?

 従来からの政府見解について、前記防衛省自衛隊HP掲載の「憲法自衛権」(http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html)の関係部分を引用します。

「わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然です。しかしながら、憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に与えられた武力行使を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています」

 

 つまり従来からの政府解釈によると、憲法9条が設定しているルールは、自衛権の行使は、自衛のための必要最小限度の範囲にとどまらなければならない、ということです。

 そして集団的自衛権の行使は、自衛のための必要最小限度を超えるものであるので、憲法9条によって許容されない、という説明です。

 

 憲法9条解釈改憲をめぐる議論では、集団的自衛権の行使が、自衛のための必要最小限度を超えるのかという点について、従来からの政府解釈を変更するか否かが、最大の焦点になるのではないかと、私見では思います。

 

 

 以上となります。長文を読んで頂いて、ありがとうございました。

 それではまた。